Route 66

犬屋

水木しげるは死んでしまった

 最近、自分を見失ってしまうことが多々ある。あんまりに酷いので、中学生の頃の曲(とも言えないデータ)を読み込んだりして自分は何者だったのか、はては何者なのかと日々を食べる。他人の世界の中心が教室なのに対し勉強に興味を示さない中学生の僕は、夜の淵を、朝の縁を跨ぐたびに他人とズレていくのが明確に確立されていて、隔離されていたのが、思い出される。手に取るように思い出せるうえ良い記憶がないのは誰を恨めば良いのだろう、行き場所のない怒りは未だ部屋の中に居座ってる。

年も明け、僕は『女性になる』という心底人類生物倫理その他諸々を馬鹿にしたような抱負を掲げたんだけど、これは物心ついた頃から自分の性別なんてどうでもいいなあって思いながら生きてきたことに由来していて。誤解しないでほしいのはオカマとか男の娘とかそんな大それたなもんじゃないってことなんだけど。今更ふわっとした疑念を形にしてみて、僕はただ単に自分自身に興味がなかったのかもしれないな。

snsでは毎日のように理解されていない事柄に対したマーケティングや異議申立てが転がっているけど、僕の場合「理解されない」っていう事自体が「理解されない」らしく自分を輪郭付けられない病気に陥ってしまっている感覚が生まれてこのかた離れない。部屋の隅でマスターベーション紛いの問わず語りを16年間続けていたら、いつの間にか死んでしまったも同然の妖怪みたいなものになってしまった。幼稚園の頃の夢、僕はゲゲゲの鬼太郎だったけれど、鬼太郎には目玉おやじがいるよな。鼠男、猫娘も。塗り壁も一反木綿も砂掛け婆も子泣き爺も。いるよな。誰かと史上福祉に至ろうとすることは、きっと妖怪を見つけるよりも難しい。手紙を片手に、妖怪ポストをいつまでも探している。