Route 66

犬屋

環状8号線

 居場所探しに漂流する人たちが最近目につく。一昔前家出した僕を見ているようでなんだか放って置けないような、懐かしいような気持ちになる。今まで僕は出所や出で立ちを語ることをあまりしなかったけど、自己反芻の材料として一度書いてみることにする。

 僕は親と絶縁してから、ずっと独りで他者との関係と音楽を抱えて生きてきた。僕は冗談で「初音ミクが母で、米津玄師は親父。」とおどけるけれど、あながち間違いではない。なので僕は本家とは別に孤立した自室、駐車場の上に立ったゲゲゲハウスみたいなところで育った。そこはそれにしては随分と居心地が良く、窓から見える朝日と夜月のいたちごっこが綺麗で、怠惰に任せて深夜に潜ると吐いた溜息と寂しさが浮き彫りになる所だった。年月を重ねるうち、スマホの画面の中で同じような思想を持った人間に親近感と憧れを持って、たまたま手元にあったギターとボールペンで美しくなれる術を模索した。曲を作るようになったころには、僕は完全に何処にも行けなかった。僕はガラパゴス諸島で生きるゾウガメみたいに甲羅の形を変え、雨を待ち、そこに居着くしかなかった。枯渇した愛は誰かの残り香で誤魔化した。

 時間というものは残酷なもので、もう顔すら覚えていない人間に対して敬意や怒りもない。親という大義名分に"絶対的"を看過できる人間に哀れみと羨ましさが残る。さようならとはじめましてを繰り返すなかで、あなたに大丈夫だと言ってやれるような人間になれればそれでいい。「自室は心と鏡合わせだ」と父さんが言っていたのを思い出した。今だけは全部を空にする必要があると強く思う。