Route 66

犬屋

シャイン

おじいちゃんが死んだ。家庭環境等色々な理由によって死に顔を拝見出来ていないんだけれど、何故だか当人と分かり合えた感覚がある。これは拒絶されようがないという死人に対する期待が要因であって、死人に口無しっていうのはこういうことなんだろうな。一ヶ月前に浴場に向かう背中を見たっきりで、二度と僕の目の中に彼の吐息は映らなくなってしまった訳だけれど、死んでいるか生きているかすらよくわからない僕には親近感すら湧いてしまうというのが現状。

 昔から死というものに頓着があまりなく、必死をこいて勉強するクラスメイトを尻目に「なんで明日死ぬかもしれないのにこんなに忙しなく生きていられるのだろう」と毎日疑問を浮かべる中学生だったのを覚えている。幽霊が出そうな風呂場で蛍光灯がチカチカする情景は、まさに生命が尽きるそれだ昼行灯は誰の目にも見えやしないわけで、命にとって死はあまりにも普遍的だ。細胞が死んで、完全に入れ替わるのに2年間。寝床に入って、意識が戻るのに6時間。よくもまあ、自分が生命的活動が出来ていると断言できたものだ。僕が今死んで一体何人の人間が悲しんでくれるだろう?それをぼんやり数えて、途中で辞めた。

 暮石の前にしゃがみ、弔う口実がないと死人と話し始める人間は頓珍漢だ。だから言葉という綱を双方から突っつき合うことこそが人間の本質であり意味だ。その綱から落ちていく人間もいるけれど、それでも結果が全てなのだとしたら人生も生まれて死ぬってだけだ。今の内に沢山の人間と沢山の言葉を交そうと思う。幽霊にでもなって出てこない限りは、風呂場からも上がれなくなってしまうから。