Route 66

犬屋

 自分を魑魅魍魎の類なんじゃないかと時々思う。自己の本質的な部分を認識されないまま、相手の良しとする域を探しながら、惑う様に人生を追っていた。そう言う側面では昔からとても淋しい人間だった。僕が美しいと思う事柄は、誰にも理解されない、という枠にも入っていないらしく、それを一旦表に出してみるとまるで現像された写真の端に映る落武者みたいな扱いをされて、それは僕の透明な体に事実として烙印みたく押され、呪いみたいに離れないまま毎日をちまちま食べている。

 僕の本体なんて、何処にあるのだろうか。相手にインプットできるよう設計された伽藍堂な体と、それらを行き来する電波みたいな精神がある。のかないのか。それすらもよくわからない。誰にも触れないまま、自分の輪郭を確かめられないままに、僕は誰を恨んで死んで行けばいいんだろう。疑問と後悔とが砂時計みたいに募っていく。それをひたすらに回しながら、こっちが正解か、とか。自問自答をするように時間を費やしていく。

 幼稚園の頃、ゲゲゲの鬼太郎になりたかったのを強く覚えてる。今思い返せば鬼太郎のエゴと人徳のバランスは素晴らしい。妖怪であるにも関わらず他の妖怪を弾圧しながら人間を助けつつ、周りには仲間がいて、ましては賞賛の的にもなる。異常を普遍的かつ英雄的なものに変換しながら、ゲゲゲハウスでのんびりと茶を啜る。僕は人間というハンデを貰っているにも関わらず、未だ死に絶えそうな剣幕で人生を生きている。

 生きるということにおいて、精神物理的どちらにしても「強い」という事実は他者への意思表示の一番の近道のような気がする。僕みたいな浮世からも浮いてしまっている圧倒的弱者は、いったい何を残していけるんだろう。