Route 66

犬屋

デオキシリボ核酸

 昔から物覚えが悪かった。多分中学時代の同級生全員の名前は忘れているし、今日の日付もつまびらかでないし、昨日胃に何を入れたのかも定かではない。最近ではそれが激化の一途を辿り、三分前に言われた事も頭の中に残っていないような事態が頻発している。しょうがないので油性ペンを使ってタトゥーみたいに事案を掌に書くんだけど、これがまた落ちにくい。このまま行くと僕は6ix9ineみたいになってしまうんじゃないか?不安だ。

‪ あんまり記憶力が悪いせいか人生で1回も過去に戻りたいと思ったことがなく、なんとなく生きて来た気がする。能天気な奴だと思ってくれて結構だが、思慮浅いと言われるのは心外かもしれない。‬心が体を動かすエンジンだとすると、記憶は基盤裏に隠れた歯車みたいなもので、‪確かに動いているという証を針音で確かめられる時計のようなものが人生だと思う。多分それらは働き続け、果てには誰かの心の中でさえ回り続けるんだろう。僕らが心配するよりはきっと一生は有限じゃないし、もっと無意味なものだ。‬最近、曲を二つも出した。休暇を制作に費やすことの良し悪しを僕は知らないが、私の音楽をきっかけに私の全く知らない歯車が捻り出した時計の盤面を感想や絵に起こして貰える事はこの上ない幸福だと思う。ただもし、僕に伝えたいような事柄があるのなら掌に書いて欲しい。タトゥーみたいにして。‬

メーテル

 最近、物忘れが凄い。というのも教科書を家に忘れるとか生温いもんではなく、数分前の記憶が飛んでしまうことが多々ある。コンビニで買ったサンドウィッチを食べることを忘れてしまったり、さっき食べたサンドウィッチの具がなんだったか20分悶えたりしている。まあ精神病か霊の類のどちらかであろう、塩でもまいておく。 

 記憶。人間の脳という部位は残酷で、重要な事ほど忘れ、忘れたいと思う記憶ほど鮮明に脳裏にへばりつく。私が初恋を忘れられないのは、きっと現時点の身体において愛という燃料が枯渇しているからである…とか思ったり。解っているのに忘れられないし、覚えているのに忘れてしまう。「いっそ夢だったら」と、何度頭蓋骨をぶん殴れば醒めるだろうか。人生は度数がめちゃくちゃ高いアルコールみたいなもので、飲み込んでしまったが最後、醒める時は眼前に電車が迫る線路の上だ。

人間なんてものはフラフラしながら人生を衒っているだけだ。だから支えあわないといけないし、それらを正当化しないといけない。揉みくちゃにされながら、人間にサンドウィッチされながら、自分が何の具なのか確かめる。そして僕はそれをすぐ忘れてしまうんだけど。他人と関わるたび「僕はいなくなった方が良い人間なのではないか」と思ってしまうのは、ずっとずっと昔から変わらない。生まれてきてごめんなさい、生まれてきてごめんなさい。と心の奥底で酩酊しているのだ。酒のせいにして今日は寝床につくとする。おやすみなさい。

水木しげるは死んでしまった

 最近、自分を見失ってしまうことが多々ある。あんまりに酷いので、中学生の頃の曲(とも言えないデータ)を読み込んだりして自分は何者だったのか、はては何者なのかと日々を食べる。他人の世界の中心が教室なのに対し勉強に興味を示さない中学生の僕は、夜の淵を、朝の縁を跨ぐたびに他人とズレていくのが明確に確立されていて、隔離されていたのが、思い出される。手に取るように思い出せるうえ良い記憶がないのは誰を恨めば良いのだろう、行き場所のない怒りは未だ部屋の中に居座ってる。

年も明け、僕は『女性になる』という心底人類生物倫理その他諸々を馬鹿にしたような抱負を掲げたんだけど、これは物心ついた頃から自分の性別なんてどうでもいいなあって思いながら生きてきたことに由来していて。誤解しないでほしいのはオカマとか男の娘とかそんな大それたなもんじゃないってことなんだけど。今更ふわっとした疑念を形にしてみて、僕はただ単に自分自身に興味がなかったのかもしれないな。

snsでは毎日のように理解されていない事柄に対したマーケティングや異議申立てが転がっているけど、僕の場合「理解されない」っていう事自体が「理解されない」らしく自分を輪郭付けられない病気に陥ってしまっている感覚が生まれてこのかた離れない。部屋の隅でマスターベーション紛いの問わず語りを16年間続けていたら、いつの間にか死んでしまったも同然の妖怪みたいなものになってしまった。幼稚園の頃の夢、僕はゲゲゲの鬼太郎だったけれど、鬼太郎には目玉おやじがいるよな。鼠男、猫娘も。塗り壁も一反木綿も砂掛け婆も子泣き爺も。いるよな。誰かと史上福祉に至ろうとすることは、きっと妖怪を見つけるよりも難しい。手紙を片手に、妖怪ポストをいつまでも探している。

田無

  僕は「名前」って言うものに固執してしまう性分があって。例えば地元の田無市は「田んぼが無い町だから」っていうネガティブなネーミングセンスしてんのが面白くて、日本人の根暗を一人で笑ったし、キラキラしてる名前を持つ人間はやはりどこか正常じゃないんじゃないかと直感で思ってたこともあった。これらに鑑みると偏見や侮蔑どうこうはこういう所から始まっていくんだろうなって思う。名前というフレーズで他人のイントロが始まっていくといったところ。僕はどんな楽曲になってきてるのだろうか、誰かを踊らせてしまえるようなものが好ましい。

何者を見に行った。映画館が嫌いで全然涙腺を壊さない人間なんだけど、あまりの虚しさに一人で号泣してしまって。エンドロールが終わって本能的な「共感してくれる人間はいないのか」という衝動に身を任せて周りを見渡したらもう誰も居なくなってて更に悲しくなったのを覚えてる。鬼ごっこの鬼役、忘れられたパズルピース、何者でもない自分独りが取り残されていた。偶然居合わせただけの集団が全く同じ映像を観ているくせ感想も言い合わずに帰って行く、僕はこれらが悲しくてたまらないらしい。

  匿名性っていうのは人間の精神を可視化させるのに一番手っ取り早い手段なんじゃなかろうか。理性も論理もないブラックボックスの中で垂れるはずのなかった愚痴を暗闇の盲目に放り投げる。なんせそんな状態には実体がない、身体が定まってないからだ。自己の輪郭を形どっているのは間違いなく他人だし、自分もまた人の整形の医師を担っている。不細工な輪郭もアウトサイドもそろそろ懲り懲りだ。僕になまえを付けてくれよ、田んぼが無かった大地みたいに。

 自分を魑魅魍魎の類なんじゃないかと時々思う。自己の本質的な部分を認識されないまま、相手の良しとする域を探しながら、惑う様に人生を追っていた。そう言う側面では昔からとても淋しい人間だった。僕が美しいと思う事柄は、誰にも理解されない、という枠にも入っていないらしく、それを一旦表に出してみるとまるで現像された写真の端に映る落武者みたいな扱いをされて、それは僕の透明な体に事実として烙印みたく押され、呪いみたいに離れないまま毎日をちまちま食べている。

 僕の本体なんて、何処にあるのだろうか。相手にインプットできるよう設計された伽藍堂な体と、それらを行き来する電波みたいな精神がある。のかないのか。それすらもよくわからない。誰にも触れないまま、自分の輪郭を確かめられないままに、僕は誰を恨んで死んで行けばいいんだろう。疑問と後悔とが砂時計みたいに募っていく。それをひたすらに回しながら、こっちが正解か、とか。自問自答をするように時間を費やしていく。

 幼稚園の頃、ゲゲゲの鬼太郎になりたかったのを強く覚えてる。今思い返せば鬼太郎のエゴと人徳のバランスは素晴らしい。妖怪であるにも関わらず他の妖怪を弾圧しながら人間を助けつつ、周りには仲間がいて、ましては賞賛の的にもなる。異常を普遍的かつ英雄的なものに変換しながら、ゲゲゲハウスでのんびりと茶を啜る。僕は人間というハンデを貰っているにも関わらず、未だ死に絶えそうな剣幕で人生を生きている。

 生きるということにおいて、精神物理的どちらにしても「強い」という事実は他者への意思表示の一番の近道のような気がする。僕みたいな浮世からも浮いてしまっている圧倒的弱者は、いったい何を残していけるんだろう。

相対生

 「愛とはなんぞや」みたいな。漠然とした疑問は物心ついた時から離れない。最近になると友人やら他人やらが彼女彼氏を作り出すし、自分の方でも事案が発生しているで尚一層その事を考える時間が多くなるので疲れる。今、結論だけ出すなら愛とは「即時的な呪いみたいなもの」というのに辿り着いてる。

 この前最寄りの駅で彼女の首根っこを掴みながら談笑している外国人カップルがいて、「他所でやれや!」ってキレながらもいやそもそもこんな人間に内も外もクソも無いのであって、とガチャガチャ考えて3番線で中指を立てた。こういう風なふたりだけの空間って言うのは良くも悪くも閉鎖的で迷惑だ。僕はこのふたりだけの閉鎖的な空間という物が愛の本質だと考える。愛の反対語は無関心で、人間同士が関わり会話したが最後、愛が生まれ落ち死ぬまで付きまとってくる、たとえそれらを忘れたとしても、実体験が思考や体に染み込まされいずれ自分の一部となる。つまるところ呪いの様な物であり、一生溶けることはなく、死ぬまでついてくる。というかそれが原因で死んでしまうようなものだ。僕はそれらが恐ろしくてたまらない。

 僕は人間に怯えながら、感化されながら、こういう思考を張り巡らせながら、個々の考えは常に違うと言うことを肝に銘じている。価値観とか思考の違いを照らし合わせながら生活を営む、人生の基礎だと思う。明日もがんばろう。

線香花火

  夏がもうすぐで終わる。今夏やって来たことを振り返ると曲作ってたなあとしか思えないくらいにひたすら作曲していた。僕の部屋の壁紙は青と黒のストライプという気分を害する為だけに作られた模様なんだけど、段々檻に見えてくる、まるでペットショップの犬気分だった。というか、滅多に外出なんてしてない訳で、起床、食事、作曲、就寝という確実なループであった訳で、作曲の意味合いなど俺にとっては餌にほかならない訳で、ペットショップの犬状態ってのが正しい所だろうか。掘り下げていくと僕の絵やら音楽なんてもんは所詮評価されたい、才能を買われたいが為のアピールであって、ますますこの表現は合ってるなと思う。生命線ギリギリで首輪の鈴みたいな主張をガラガラ鳴らして生活してる、この生活も忘れないように気をつけようと強く思う。

  そういえばクーラーを付けたり消したりすると電気代が跳ね上がるっていうのをどっかで聞いたけど本当かなあ。めんどくさい機械だ、でも人間も心を切り替えていくと嫌なものが増えるめんどくさい動物だ。俺は犬だから例外、ワンワンッなんて言ってられんし言わしてくれない、いや手厳しい、参った。

  誰もができる限りこのまま変わらないでいたいのだと思う、俺もそう思うし。でもって人間の季節なんてすぐ移り変わる。皆必死だ。いつまでも春でいられないしいつか懐かしくなる。飽きが来る事も不愉快事さえも全部言葉と音で表現したい。季節を超えて残る作品を作りたい。